ケジラミ、その16、浮気の代償
病に倒れている義父やその看病で疲れている義母を
巻き込みたくはなかったのですが、
妻にも私が味わった嫌な気持ちの何分の一でも
体験させなければ気が済みません。
何度かのコールの後、受話器を取ったのは妻でした。
「はい、△△(妻の実家の姓)です」
「俺だ」
「あなた……」
電話の向こうで妻が息を呑む様子が見えるようです。
「すみません、こちらからすぐにかけ直します」
「この電話では話せないことか」
「すみません……近くに父と母が……お願いです」
妻は受話器に口を近づけ、小声で哀願するように話します。
「お義父さんやお義母さんにも聞いてもらったらどうだ」
「それは……」
妻が切羽詰まったような声を出します。私も本音では夫婦間の
ゴタゴタに病に倒れている義父まで
巻き込みたくはありません。41歳にもなる娘の育て方に
ついていまさらその親に苦情を言ってもしょうがないことも分かっています。
「わかった。今家には俺しかいない」
「すみません、すぐにかけます」
私が受話器を置いてから3分程しかしないうちに、電話がなりました。
「紀美子です……」
私は妻の声を不思議なほど遠くに感じました。
それは遠い実家からかけているということだけでなく、
気持ちの上の距離感だったと思います。
「話したいことって、なんだ」
「あの……」
妻は口ごもります。
「春日さんと話されたんでしょう」
「奴から連絡があったのか」
「はい……」
「いつも連絡を取り合っているんだな」
「違います」
「まあいい、おまえの話を聞こう」
私は妻を促します。
「ビデオと写真をご覧になったんですね」
「それは俺が春日に言ったことだ。夫以上に信頼している人間の言葉を
わざわざ俺に確認しなくても良いだろう」
「それは違います。私があなた以上に信頼している人はいません」
私は本当は「信頼している」というより「愛している」と言いたかったのですが抑えました。
そう言って妻に否定されないことを無意識のうちに恐れていたのかも知れません。
「まあいい、それよりもさっきから質問ばかりだな。
紀美子が話があるというからかけたんだ。その話を聞こうじゃないか」
「それは……やっぱり電話で話しにくいです」
「それなら俺から話すことはないから、これで終わりだ。
離婚届を送って置くから署名捺印して返せ。
後は弁護士を通す。おまえはもうここに帰ってくる必要はない。
お義父さんの看病も必要だし、ちょうど良い。ずっと実家にいろ」
「そんな……離婚なんて言わないでください。
あなたが考えているような関係ではないんです」
「俺は何も自分の考えを付け加えていない。
お前たちの嫌らしいビデオと写真から判断しただけだ」
「待ってください、私の話を聞いてください。水曜日には家に帰ります」
「水曜日……今日中に離婚届を速達で送るから水曜日にはそちらに着く。
お前はそこで待って受け取れば良い」
私は一気にそこまで話すと電話を切りました。
その後何度も電話が鳴りましたが、私は出ませんでした。そうこうしている間に
玄関のチャイムが鳴りました。ドアを開けたらそこには
緊張した面持ちの春日が立っていました。
「ご主人、申し訳ありません!」
春日は玄関に入るや否やそう叫ぶように言って、その場に土下座しました。
私はしばらくあっけにとられて春日の様子を眺めていました。
「入れ」
「はい」
私は春日を応接間に通しましたが、春日はソファには座らず、
床の上に直接正座しています。
私はそれを見てふと、春日は以前にもこのような修羅場を
経験しているのではないかと感じました。
「あんたとももちろんだが、あんたの奥さんと話がしたい。
出来ればこの場に呼べ。あんたの奥さんも被害者だからな」
「……ご主人、私には妻はいません」
「何?」
春日は私より少し年上の40台半ばといったところのようです。
今時その年で独身の男は珍しくありませんが、
銀行という保守的な業種で管理職の地位にある人間が
独身だというのはやや意外な感じがしました。
しかしこれで春日の家庭も壊してやろうという私の願望は
潰えたことになります。私は苛々してきました。
「独身か。ならちょうど良いじゃないか。
俺は妻と別れるつもりだから一緒になれるぞ。
ただし、2人ともそれなりの代償を払ってもらうつもりだがな」
私はそう言いながらも、妻からはともかく、春日に慰謝料以外に
どのような代償を払わせるのか考えていました。
社内不倫ということで銀行の人事部から処罰させることが出来るでしょうか。
「ご主人、私は奥さんと一緒になる気はまったくありません。
別れるなんておっしゃらないでください」
春日は額を床に擦り付けるようにして哀願します。
春日は額を床に擦り付けるようにして哀願します。
「なぜだ? 2人とも愛し合っているんじゃないのか」
「愛し合っていません」
「なんだと?」
「愛し合っているのか」と聞いてあっさり「はい」と答えられるのも腹が立ちますが、
「愛し合っていません」と即答されて私は一層怒りが増しました。
「どういうことだ? 愛し合っていないとは何だ?
お前たちは遊びで一つの家庭を壊したのか」
「ですから……壊してほしくないんです。慰謝料はお支払いします。
よければ奥さんに請求する分も私が払います」
「さすがに銀行の次長ともなれば金持ちだな。離婚するのだから妻と
お前にそれぞれ500万円ずつ請求するつもりだが、払えるのか」
「それは……2人で100万円くらいなら」
「話にならん。払えないのなら偉そうなことを言うな」
「いえ……離婚されないのならそのあたりが相場かと……わかりました。
2人で200万円でどうでしょう?」
「バナナのたたき売りじゃないんだ」
私は怒鳴り声を上げました。
「それと、離婚するかしないかは俺達夫婦の問題だ。お前が口出しをするな」
「ごもっともです」
「それからさっきからのお前の関西弁も気に入らない。ふざけているのか」
「ふざけていません。私はもともと関西出身で、
これが普通です。銀行でも関西弁で通しています」
「ビデオの中ではそうじゃなかったぞ」
「あれは……奥さんが標準語で話してくれと……」
妻がどうしてそんな希望を出すのでしょう。
私は首をひねりましたが、今はそれどころではありません。
「とにかくお前はどうして責任を取らない。
俺が妻と別れたら妻と一緒になるのが責任だろう」
私は本当は妻と離婚してからも、妻が春日と一緒にはなって欲しくないのですが、
自虐的になってわざとそういう聞き方をします。
「私は誰とも結婚しません。奥さんでなくても同じです。
結婚したら必ず相手を不幸にします」
「何?」
私は春日の奇妙な言葉に混乱します。
「どういうことだ」
「私も結婚の経験はあるのですが、職場の女性に何度も手を出したことで、
愛想を尽かした妻に出て行かれました。
融資業務部というのは問題融資の期日管理や利払いの処理をしている部署で、
銀行の中では裏方、日のあたる場所ではありません。
私がこの年でそんな部署の次長に留まっているのは女で
何度も失敗したのが原因です」
「……」
「やめよう、やめようと思うのですが、女ぐせの悪さは生まれつきのようで、
やめられないのです。もう、病気のようなものです。だから結婚は諦めてますし、
一人の女性を好きにならないようにしています」
「お前の身の上話を聞きたいんじゃない。とにかくこれから妻をどうする積もりだ」
「どうすることもありません。してしまったことを否定はしませんし、
出来る限りの償いはします。
それと、ご夫婦の問題であることは重々分かっていますが、
奥さんとよく話をしてください。お願いします」<
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